2日目は、プラナヤマクリニック。
プラナヤマには“正しい理解”と“実践”の2つの側面があります。
とのお話から始まりました。
正しい理解なくしてのプラナヤマの実践は、
電気を、あるいは核を、素手で扱うような危険なことなのだと!!!
プラナヤマがそんな危険を孕んだものだなんて、知らなかったなぁ。
ワナカムヨガスクールのワークショップには、ビックリがいっぱい。
これまでの私は、呼吸法ぐらいにしか思っていなかったのだから。
まずは理論から。
ここでもプラナヤマの語源から。
プラナを生命エネルギーと訳すのだけれど、英語で訳しても、日本語で訳しても、
プラナの微妙なニュアンスからずれてしまう。
私たちは、エネルギーと言われると、
食べ物から得る栄養やカロリーが、頭から離れなくなってしまいます。
今、自分が知っていることをベースにして理解をしようとしてしまう。
でも、この今自分が知っていることも、
深く内側に問いかけて検証することなく、得た情報をポケットにしまい込み、
知ってるつもりになっているだけではないのか、と突きつけられます。
知っているつもり、がどれだけ多いことか。
バンダもウジャイも、「え~っ!」の連続で、
目もグルグル、頭の中もグルグル、みんな混乱しているのがわかります。
ここでも、自分の内側と対話することは避けられないのだと知らされます。
そして座位のクラスへ!
これ、やってみたかったんです。
以前、座り方がなっていない・・・
と言われてから、
ドクター・マドヴァン&マスター・スダカーの座り方を見ていると、
確かに自分とは違う。
自分なりに、こんな感じ、を再現してみていたものの、
しっかりお直しされました。
自分の中の感覚のまっすぐと、
実際のまっすぐのズレを身体にインプット。
私はプラナヤマのクラスに出ることが初めてなので、
他ではどんなクラスをしているのか、全くわからないのですが、
座位のお直しから入る実践プラナヤマって、普通のことなのかしら?
とてもありがたく勉強になりました。
ここからようやく、実践プラナヤマへと入るはずですが、
ドクター・マドヴァンのお顔が、明らかに自問せよと語ってました。
プラナヤマ練習に入る前に、最低限出来ていなければいけないこと、
その1が座位。
その2が腹式呼吸。
参加者のおそらくほとんどが、正しい腹式呼吸ができていない様子。
もちろん私も。
最初のステップができていないのに、
次の段階、さらに高次な段階の練習をすることに意味があるのか?
私たちがやろうとしていることは、百害あって一利無しではないのか?
それならなぜ、基礎を飛ばして先へと進みたいのか?
ここでも、自分を見つめることの大切さを突きつけられます。
今の自分は何をすべきなのか。
「自分のアシュラムに来ている生徒だったら、
皆さんの今の段階でプラナヤマの練習は一切させない!!」
と優しそうなドクター・マドヴァンの厳しい一言。
教わる私たちの準備ができていないことを
実感させられたプラナヤマのクラスとなりました。
マスター・スダカーはよく、
“生徒の資質”ということをお話しになります。
この日のワークショップでも、
生徒さんの中には、意味のない実践プラナヤマを教わるよりも、
正しい腹式呼吸を習いたいという声もあれば、
やっぱり実践をしてみたい、という声もあり。
きちんとした座り方が出来ていないことは、自分自身わかっているのに、
それでもウジャイ呼吸やカパラバッティを実践したい、
という矛盾、好奇心、執着、エゴ。
しみじみと教わる側の器が試されているんだな・・
と。これがまたマスター・スダカーがいつも言う、
“マットの上は日常の延長”ということで、私達はヨガの学びの場においてさえ、
ミーハーな執着やエゴを捨てられないんだな、と実感。
教わる準備が出来ていないのに、
良い先生を探し、ヨガワークショップを転々としている。
私達、何だか矛盾していないか?
この二人のインド人講師がすごい!と思ったのは、
生徒がやりたいことをやらせる方が簡単なのに、
今何をすべきかを考えさせ、今やるべきことをはっきりと、
生徒の顔色を見ることなく断言する妥協の無さ。
「参加者が、次回僕たちのワークショップに参加してくれるかどうかは、
一番どうでもいいこと。
自分たちが、ヨガマスターとしての本分を果たしたかどうかがだけが重要」
と言い切る強さは、彼らが“本物”に基づいているからなのだろう。
そして、インドから離れた異国の地、日本に、
そんな“本物”を伝達しようと、わざわざ足を運んでくれる。
そんな師に出会えたことに感謝。