2014年2月19日、20日の二日間にわたって行われた
マスタースダカーとドクターマドヴァンのコラボリトリートに参加してきました。
昨年、東京での初コラボに参加して以来是非、
関西でも実現してほしい、と思っていた私です。
開催が決定後。
即申し込み、ものすごく楽しみにしていました。
2012年VOY大阪の前期においてドクターからYOGAの哲学を学びましたが、その時はまったくのチンプンカンプン。
ドクターがいろいろな例え話で理解を促してくれているのに、なんというか、硬い地面には水がしみこまないように、ドクターの言葉はただ私の心の表面を濡らして、通り雨のように過ぎ去ったのでした。
私たち生徒が発する珍回答(その時は真剣!)に嬉しそうに真っ白な歯を見せて“はっはっはー”と笑うドクターの顔が今も忘れられない。
さて、今回は、、、、、
リトリートの一日目。
オープニングは“マスターフロー”一期一会から。
マスターのフローは同じフローが無い、まさに一期一会。
はっきり言って、マスターのフローはすごくきついけど、
すごく楽しい。
ずーと一日中フローでも私たちは幸せ。
マスターも楽かもしれない。
でも、それはYOGAの目指す“至福”ではなく単なる“快楽”に過ぎない。YOGAは“楽しい”だけじゃダメなんだ。それだけじゃもったいない。その理由を今回の二日間で学んでいく、その為の最初のステップがこのフローなのだ。
今回はどんなフローかな?
ワクワクしながら待つ私たちに、マスターは静かに語りかけます。
“YOGAの練習においてアサナの練習は重要であることは事実。
しかし、日本において、世界において、アサナの練習のみを重視することによって、ヨガが単に肉体のワークアウトであるかのように誤解されている。
“それはなぜか?”
“その理由は、私たちがアサナの効能を真剣に信じることが出来ないことによる結果である”とマスターはいいます。
どういうことなのか?
マスター曰く、
私たちは、アサナの真の効能というものを体験できていない。
体験したことがないから、
アサナの効能を信じることができない、理解しようとしない。
アサナに対する不信と無理解が、
アサナを正しく練習する態度を失わせている。
正しく練習しないから効能がこない。
効能がこないから信じられない。
ふ~、なるほど、堂々巡り、なのだな。
ここで、小話・・・かなりブラックな小話だ。
登場事物のヨギ―はそれらしい言葉を使って、神をの存在を信じていると言いながら、その実、心の奥底で神の存在を信じ切れていなかったのだ。同じように私たちもアサナの効能を語りながら、アサナの効能を信じきれていない。
真のアサナの効能を知らないことによる無知が、解り易く目に見えるもの、たとえば肉体の効能にだけ注目させている。
スタイルを良くしたい、痩せていると言われたい。
柔軟だといわれたい。
(それをアサナの効果と思っている。)
外見に執着することで、私たちはいつも他者の基準で自分を評価し、他者からの称賛を求めている、恵んでもらいらたがっている、それはまるで物乞いのようなものである。
とマスターは言う。
“あなたは物乞いのように生きたいですか?”
マスターの強烈な問い。
いいえ、
私は決して物乞いのような惨めな人生を送りたくありません。
そう強く思う私の心。
しかし、同時に他者の評価や称賛を無意識に求めてしまう弱い自分がいる。
さらに、マスターは言う。
“他者にのみ求め続ける心は貧しい。心が見返りを得られない時に、やがてバランスを崩し、いずれ、うつ症状にいたるのだ。そして、その心の弱さを克服できなければYOGAをやっている意味が無いのだ。自分がどのように生きたいのか。自分自身に問いかけてほしい”と。
この後フローの始まりです。
今回のフローは、一言“CONFUSING” なフロー。
右手と左足?次は左手?
う、う、う、今、私の体はどうなっているんだろう??
ハードと混乱が合体して、
私の体はからまった毛糸玉のように、
あっちにゴロン、こっちにゴロン。
マスターは良く言います。
“僕の仕事は皆さんを混乱させること”
その言葉はフローにも適応されるのだったのですね。
知らなかったー。
このフローの体験が本日後半の座学、
バヒランガヨガへの招待状だったとは、、、
午後は4時間に及ぶ座学。バヒランガヨガについて学びます。
前半の二時間はマスター、後半の二時間はドクターの担当でした。
“さて、まずは、アシュタンガヨーガとはなんですか?”
マスターの質問からスタート。
アシュタンガヨーガとは、古典テキストであるパタンジャリのヨーガスートラによる、サマディにいたる8つのステップである。ということは、少しヨーガの哲学を学んだことがある人なら、誰でも答えられるだろう。その中のはじめの五つ(もしくは四つ)のステップがバヒランガヨーガとよばれる。
バヒランガヨーガについて語る前に、
マスターが、私たちに考えてほしいこと。
それは、自分がYOGA について語る時に使う言葉、ひとつひとつの意味を理解して使っているのか?と自問してみてほしい、ということ。
どこかで聞いた言葉、誰かが使っていた言葉、それらを考え、理解することなしに、なんとなく自分の言葉として、単にコピーして都合良く使ってしまっているのではないか?
ここでマスターお得意の小話・・・この小話が本当にわかりやすい!!
今回の小話の様に、実態や実像のないものを、さも存在しているもののように語ることが、いかにばかげているか。
私たちはこの二人を笑うことができるのか?
YOGAの目的、アシュタンガヨーガのそれぞれのステップの意味を理解しようとせずに、ただYOGAを練習している気分になっているだけではないか。
それは、飲み物の自販機にお金を入れて、おにぎりが出てくるまでボタンを押し続けるようなものだ。
(会場に設置されていたジュースの自販機を例えの使ってくれたので、すごく解りやすく感じた例え話。)
私たちは、飲み物の自販機からおにぎりやラーメンが出てくると期待してむやみにボタンを押し続けるように、YOGAにがむしゃらに向かっていないか。方法が正しくなければ目的の物は得られないのに。
バヒランガヨーガとはoutside(外側の?)YOGAということか。
マスターの例え。
家の周囲が汚れていると、外出から帰ってきたときに、その汚れが当然家の中に持ち込まれる。まず家の周囲を清らかにすることが家の中を清らかに保つための第一歩。
家の中が自分の内面?では、内面とは何か?外面とは?
そのことを理解するためには、96の原理について学ばなくてはならない。
学ぶことがたくさんある。
ここで急に、午前中のフローについての感想を聞かれます。
同じフローをしても、それぞれが違う印象をもったのは何故か?
一人ひとりの認識の違いはどこから来るのだろうか?
マスターは私たちの動きを見ていて、みんなの首が隣の人をチェックして右左と忙しく動くのがおもしろかった、らしい。
“何故そうだったのか考えてみて。”と、マスター。
自分のしていることに自信がない?
間違えたくない?
隣の人を自分よりよくできると思っているからチェックした?
完璧な自分でいたい?
ここでマスターの鋭い問いかけ。
“あなたたちはフローをしている時、
間違いのないフローをしたいのか?
それとも、自分の内面に集中したかったのか?“
どっちなのか?
外界の印象(刺激)に反応することで、
私たちはエネルギーを無駄に消費している。
もし、マスターの指示にのみ集中することができたら、
その先にある瞑想状態にもたどりつける。
集中が訪れた時に、私たちが感じるもの。
それが充足感。
マスターの指示に混乱しながらも必死についていく時。
混乱の中でさえも訪れる集中があるのなら、もし、混乱が無くなった時の集中はどれほどのものか?考えてみてほしい、とマスターは言う。
完璧を求めたり、人と比較することで、ありのままに自分を受け入れることを拒否している自分が居る。そのことが集中を妨げている。
午前中のフローの意味が少し解ったような。
次の機会には(あ~一期一得だったのに>0<)
目を閉じてひたすら自分に集中する時間にしなくては。