自分のマスターになる 『京都誓願寺WS』

毎年恒例となってきた、京都TAMISAさん主催の誓願寺でのWS。

そして、これもワナカムヨガスクール恒例?
の質問からのクラスがスタート。

「なぜ初心者クラスにくるのか?」
という、マスターからの投げかけ。

そこから、『問い掛け』が如何に大切かを
例え話を交えながら説き始めます。

あるところに、一人の僧侶がいました。

その僧侶は、毎日同じ時間に同じお寺に行き、
座禅を組んでは帰っていく・・
という生活を20年間続けていました。

ある日、門番が僧侶にこう尋ねました。

「あなたは何故、毎日毎日同じ時間に来て、
座禅を組んでは、また帰って行くのですか?」

それまで、何も考えずにただ毎日お寺へ通い座禅を組んでいた僧侶は、
この質問を受けて初めて『問う』という行為を自分に行いました。

そして僧侶が門番に
「あなたは、ここで何をしているのですか?」
と聞き返し、こう続けたのです・・

「あなたがここで働くのと同じお給料を払うので、
私の為に働いてくれませんか?」

“問いかけ”の重要性を悟った僧侶は
その役割を担ってもらうよう門番に仕事の依頼をしました。

というお話。

私たちも日常の中で自問することなく、
“ただやっているだけ” になっている事が多いと、マスターは言います。

最初のマスターからの質問「なぜ初心者クラスに行くのか?
のように、何も考えずに物事を始めてはいないか?

ここでの“考える”とは、
損得勘定や利害関係を計算するという意味での考えるではなく、第二の自分ともいえる客観的立場から物事を離れて冷静に見ている、もう一人の自分に問う行為。

その作業をしていれば、
物事の結果を受けて落胆し後悔したりしない、のだそう。

例えば、鞄を買った後、結婚した後、発言した後・・
何かアクションを起こしたに悔いる。

私たちは物事の“結果”には反応するが、
物事を起こす“”には気を払わない。
『問う』という行為をしていない。

この第2の自分とも言えるこの存在は、
何の判断もせず、何な感情も作り出さない、ただ客観的に見ているだけ。
『知性』という言い方もできる。

京都
この知性は、アサナの練習中にも必要なのだろうと、
マスターのクラスを受けていると思う。

どこを使うべきで、どこを使わないか。

勝手に動かしたくなる部分に「動くな」と指令して、
「こっちだよ」と使うべき箇所に指令する。

その時、「シンドイ」「もう降ろしたい」「無理」
と呟く弱いマインドが登場する。
弱いマインドが知性の声が届かない様に邪魔してくる。

・・だが、その声を無視して、知性でもって練習を律する。

こうやって文字にはできるんだけど、実際はまだまだ弱いマインドの声を無視できずにいる弱い自分がいることに、マットの上での練習で気づかされる(><)

そしてそれは、兎にも角にもマットの外の日常の自分の姿に他ならないんですよね。。

動く前のマスターのこうゆうお話、
きっとスートラをサンスクリット語で勉強すれば難しい話も、
こうやって私たちの日常と繋げて説いてくれるので分かりやすい。

マットの上と、マットの外を、
様々な例え話を取り入れながら、絶妙に繋げてくれるマスターのクラス。

1

そして2クラス目は、マスターフロー。

マスターの名前ではなく、『自分が自分の“マスター”になる』という意味が含まれたフローで、前述した、弱いマインドに流される事なく、その時やるべき事をするという第二の自分の声に従うという意味に繋がってくる。

大汗かいて気持ちいい〜
で終わらないマスターのクラスは、どこまでも深かった。1

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