導かれたVOY京都

今回のヴィジョンオブヨガのテーマを「 REAL」だとマスターが直感で決めた時、私の体には 稲妻が走ったようだった。

私の、人生という物語の途中で 、しかもこの時期に このタイミングで・・信じられないくらいにドンピシャなテーマに、まさにここにくるべくして来たこと、お導きであったことを理解した。

そしてその道にきちんとたどり着けたことに心から感謝した。

長い長い道。
しかしそれが私のずっと求めていた真実の道。

そしてマスターは、こう私たちに問いかけた。

「Do you RESPECT yourself ? How ? 」
自分自身を尊敬していますか? どのように?

「Are you REAL ? 」
あなたは 本物・真実ですか?

自分自身を尊敬する・愛する、ということ、これは本当に気が遠くなるような・・深い深い、言葉であった。それは決して他者が理由にならない、純粋な己の魂の行為。

比較・競争社会の激動に揉まれ慣れた人間にとっては、他者を理由にしない比べないことだけでも、どれほど大変な作業だろうか。

執着を引き剥がす作業は、固まっている筋肉をゆっくりゆっくりとほぐす作業と同じで、根気がいる。しかし私たちがやってることといえば、固まった筋肉に追い打ちをかけるように心も追い詰め、見せかけのポーズへと急ぐ。それはつまり「結果」への執着であった。己から逃げるように。いま、ここ、から。

それは一体何の為か。
他人や社会から評価を得たいからではないのか。

死ぬまでそれを続けるのであれば、私たちは立派な「乞食」。他人や社会からの評価の為に生きる奴隷であり、わたしたちは己のリーダーではない。

柔軟性が高いことや美しいプロポーションのイメージが先行している巷のヨガは、一体何を求めているのだろうか。それがもし他人や社会の評価を得たいが為に「真の自分」を殺しているならば、それは「乞食」の行為ではないのか。

また、「ありのままで良い」という言葉は、一体どのような意味で使用されているのか。

今の私は、時空を超えて輪廻しているこの魂が、今世は「川本 真紀」として体を借りているけれども、その体はご神体と同じく祭壇であるということを、このごろ体を洗うたびに感じるのだった。祭壇を綺麗にしておく儀式を毎日している。

今世での学びを果たす為に、この祭壇をお借りしている、頂いたこの体に不満を抱くことなく、ありのままの体を愛すことは決して間違っていない。

しかし、たくさんのご神体を移動しながら輪廻しているこの魂の学びに対して「ありのまま」でいいわけがない。

回転するということは 学んでいるということであり、魂が学んでいない状態で感情に流されるだけならば それは回転・輪廻でない。

回転する行為が伴わずして、チャクラの話をする意味があるのか?

行為・体験が先である。

身も心も満たされた「空」の状態で汗をかくことはない。ヨガとはヨガの世界だけに精通するヨガ哲学という特別なものではなく、人間哲学であることを知った今、いかにマットの上で汗をかかずに至福に近づけるのか、を探求するスタート地点に立たせていただいたこの喜びは計り知れない。

巷で流行っている「ホットヨガ」とは、まるで海外で流行る「ホット日本舞踊」のような感覚に襲われた。そこに真の日本舞踊の精神性や美しさが得られないことは、誰の目にも明らかだろう。

フィットネスと芸術は異なる。

「一日のうち残りの23時間に影響しないアサナであったならば、その1時間のマットの上のアサナはアサナではない」と教えてくれたマスターの言葉を私たちはいかに重く受け止めるべきか。

日常のわたしの「思考」・「言葉」・「行動」のすべてがわたしたちの日常のアサナであると私は感じた。それは私達のマットの上に全て現れてしまうのだ。

自己を受け止めているフリは誰にでもできる。
しかし真に受け入れるには強靭な精神力と自己への信頼が必要となる。それは並大抵のことではない。

私達の敵は私達の「恐怖」なのだった。

しかし私は、踊る者として・唄う者として・言霊を発する者として、自己の真実に生きることを誓ったときから、その「己の恐怖」と戦い続けている。

人間の「生」そのものがすでに命の芸術だと思っている。

しかし自己に問うことを十数年続けてきても、マスターの前では粉々に何かが砕けてしまう。それだけでは全く駄目だったと。たとえ自己に問い続けても、「他人の問題を自分の問題にしている」限り、魂の至福はやってこない。そのことにマスターは気づかせてくれた。

「繋げてはいけない」ということ。

そして、「内側から発する力のみが、生命を創造し、外側から加えられた力によって生命は破壊される」こと。

「正しさ」と「真理」は異なる、ということの意味をずっと考え続けていた私には、何か心のひっかかりがすーっと取れたような気がした。もう「正しい」や「間違い」を裁く時代が終わるんだ、とふと直感がした。

外側から力を加えて「変えようとしてはいけない」ことを決して私は忘れまいと、改めて確信した。

愛という名のもとに、わたしは相手の固くこわばった筋肉を一生懸命ストレッチして伸ばそうとしていた。筋肉は固すぎて、ストレッチしようとする私の身も心からも血が流れていたというのに、それでも何かを信じて涙を流しながらずっと伸ばそうと頑張り続けて、最後にその筋肉も私の筋肉も切れた。

なぜ、その筋肉を「緩める」ことから始められなかったのだろうか。

そして同時に、その筋肉を「緩める」ことに私は執着し、繋ぎ、自分の問題にしてしまい、自身の首を締めてはいなかったか。結論を急いではいなかったか。そして手放すということが愛でもあることを気づいてはいなかったか。ならばなぜそれができなかったのか。相手を本当に信頼していたのか。それは恐怖ではなかったか。そこに、己の魂に対する尊敬と愛が本当にあったのか。

この一連する全ての問いかけは、明らかに私の中の膿を洗い出し、ほんの一歩だけ、真の光に近づけるようにそっと扉を開いてくれた。

それはまるですべての命が持つ自然治癒力のような、そんな扉ではないかと、私は考える。それは、まさに内側から発する力、光。それだけが、真の生命を創造する。

何年かかるか、今世でできるのかわからない。
けれども私は、その光が全ての人々の内側に宿っていることを感じてもらえるような、魂の行為でありたいと、社会に還元できるような場所を創造したいと考えている。

そのツールはマスターの教えてくれた真のヨガであり、私の命でもある「舞踊・唄・言霊」でもあり、生きるという芸術を通して生涯表現し続けることでもある。

マスターのくれたこの証書は私に囁いてくれる。

私は単なる架け橋にすぎないのだということ、また結果に執着するのではなく、ただ己の魂を真に輝かせ「行為」をしなさいと。

その扉を開けることのできたことへの祝福。

旅路は長いけれども、この静かで深井莞隚と魂の幸せは、とても言葉ではまだ表すことができない。

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