敬う心

2015年8月末日、4日間の島根リトリートに参加いたしました。

3日目の朝参拝した美保神社。そこでは毎日奉る神様へ祝詞と舞が捧げられていました。365日毎日午前と午後に2回、なにがあろうがあるまいが、誰が来ようが来まいが、美保関町の方たちが古から今日まで、そしてこれからもずっと続けておられる行いです。美保関町の方たちは声高にアピールするでなく、肩肘をはるでなく、とても自然にその行いを日々の生活の一部として行っていました。私はこのことにとても感銘を受けました。

次に中村元記念館を訪問しました。島根の大根島は、仏教学者中村元先生(ご本人曰く、自分は古代インド哲学者だそうです)の生誕の地であるそうです。記念館の学芸員の方たちから中村先生のお話を聞いていると、学芸員の方たちが中村先生をとても敬愛していることが言葉の節々から、また館内の様子からとても良く伝わってきました。

最終日の出雲大社。大社の前は沢山の食べ物屋や土産物やで賑わっていましたが、正門内をくぐると空気が一変し、大社内は神様のおわす空間として守られているように感じました。

美保関町・大根島・出雲、いずれにも共通して感じたのは「敬う心」です。対象は神様であったり人であったりしますが、真に何かを敬う心がある人は、なにに対しても、誰に対しても、その存在を受け入れることができるのだなあと、一訪問者である私たちをもてなす島根の各地の方々の自然なふるまいから感じました。

自分よりはるかに偉大なものの存在を知っており、畏れ敬い感謝する心。それを美保関町・大根島・出雲の方たちから学ばせてもらいました。

帰ってから円さんのフェイスブックで気づいたことですが、出雲宮司を前に履物を脱ぐマスターもまた「敬う心」を備えた方でした。nozomi01

「力づくで行うのではなく、信じて行いなさい。」

マスターが仰った言葉です。私には非常に痛い言葉でした。私はいつでも力づくでした。100%の信がない人間でした。

「信じて行う」というよりも、「100%の信があれば、おのずから行うはずである」というのが正確なのではないでしょうか。100%の信があれば、行いは自動的に出てくるものである。マスター・島根の方たちのふるまいがそれを表している。信じるとは、こういうことなのだと学ばせてもらいました。

疑の塊である私が、今、少し変われそうな気がしています。島根リトリートで体験したことを、自分がしっかり感謝して受け止めることができれば、私もきっと変われると、今信じています。

私は広島の者ですが、この度島根の地を幾つかまわり、かの地の方たちのふるまいを見て思うに、広島市民はまだ先の大戦・原爆から立ち直れていないように感じました。広島市民は自分のルーツを見失ったままのように感じます。

ヨガでは人間の持つ三大欲(ペンナーサイ・ポンナーサイ・マンナーサイ)の一つとして土地に対する欲をあげています。今まで世界中で起こった戦争・今たびたび政治の火種になるナショナリズムを思うと、確かに土地欲は人間を貶める悪いもののように思いますが、島根の方たちの自らの住む地への愛情・ふるまいを思うと一概に否定できないように感じます。人間は、植物のように根を張る土がないと生きられないわけではありませんが、人間の体も植物と同じようにその地の空気・水・食べ物でできている以上、身体と土地は繋がっていると思います。自らが生きる地を敬う心と土地欲 。この違いはなんなのか、10月から始まる広島VOY後期で皆と話し合い師から学びたいと思います。

島根リトリートは私の人生の岐路になったと思います。帰路にしなければいけないと思います。これだけの素晴らしいものを体験させて頂いたのだから。

島根リトリートを主催して下さり、サポートして下さった全ての方々に感謝いたします。nozomi02

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