2017.4.23 名古屋ワークショップ(1)

冒頭にマスターからの質問。「ヨガの指導者の資質とは?」

 

私に浮かんだ言葉はLOVEだった。

すぐ浮かんだにも関わらず手を挙げられない。いや、そんなベタな。恥ずかしい。もっと考えて。と頭の中でこだまする。

「愛を惜しまず与え尽くせる事」これならどうだろう。頭の中で沢山のコメンテーターがあれやこれやと検証しだす。

そんなんいつかのマスターのコピペとちゃうの。誰も答えないのはもっとちゃんとした答えやないとあかんからやん。もっと考えて。

でもちゃんとした答えってなんやろう。一体私の頭の中には何人いるのか、口々に発言が飛ぶ。ひとりが言った。言うてみたら?

手を挙げる。「惜しまず与え尽くせる事。」あれ?愛が無かった。何で省略したんや。

 

マスターがおっしゃる。私たちは日常間違わないでおこうとする。

でも、ヨガに於いては本当に正しい真実に向き合わず、違うとわかっていながら見栄えの良い所に留まろうとするなと。

 

いろんな場面が頭の中をよぎる。レッスン中の発言のひとつひとつ、行動のひとつひとつ。好かれようと耳触りのいい事ばっかり言うてないか。あかんと分かりきってることを見ないフリしてないか。嫌がるやろうからと必要な事を避けていないか。

生徒さん、職場の人たち、友人たち、家族。それぞれとの関わりの中で私の言動は本当に相手の幸せに向かうものなのか。それとも私の独りよがりないい人のパフォーマンスなだけなのか。

 

そして私自身に対しては…。

今回、マスターが私たちに与えてくださった言葉は「カルーナ」。博愛。慈愛。英語ではコンパッションというそうだ。

愛情には裏側に利己的な目的があるが、博愛の裏側には何もない。ヨガスートラに「ヨガをする者は、ただ水が無く枯れていく木や花を見ても、涙を流し愛を注ぐ」とあるそうだ。そこに利己的な目的は無い。

損得を勘定するから怒りや妬み、苦しみを生んでしまうのかもしれない。先ずは自分自身に対して目先の楽にまどわされず、歩いて行くべき道、その先を見据えて進んで行きたい。

 

アヒムサ。傷つけざる事。自分を愛し満たしてやることで、周囲へと溢れ出す。周囲も満たされる。

傷つけた為に溜まる不満・不純物は股関節に溜まるからと、今日はアシュワサンチャラーサナ。股関節を開いていくワークがめちゃくちゃ痛い。

 

あら、私、なんでしょう。最近いい感じちゃう?なんて思ってただけに、まだこんなに痛いのかとちょっとショック。

でもワークの後のアサナは軽いこと軽いこと。音で言うとフニャッて感じ。歩いてもフワフワ。

後半のシュクシュマヴィヤーヤマでもフローの中での股関節の開きに、おっ?さっきのワークがきいてるなぁなんて思ったり。無我夢中でついていき、終わってみれば90分もの長いフローはやりきった感に解放感。

 

全てのステップを指示どおりになんてできてないけど、やろうとすることが大切だよといってくださるマスターこそがカルーナを体現されている。

博愛。慈愛。フローの途中で「山か綺麗やで。」ととなりのマットから聞こえた。

頂きに雪を残した山が輝いていた。

私の内側に届いたカルーナ。この感覚を大切にして行こう。

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