2019.2.9 内側から温めるヴィーラーサナ@京都(2)

ヨガを学ぶ上で、家族の理解が得られず家庭内四面楚歌(注)に置かれる話を耳にする。幸い自分にはあてはまらないけれど、八方塞がりになることはある。与えられる課題や、投げかけられる問い。どうすればいいのか、じゃあどうしろというのか。ヨガを生活の糧にしているわけじゃないんだから、そこまで学び続ける必要があるのか。行きつ戻りつするヨガに対する気持ち。VOY中には仲間の前で何度も泣いた。

「人前で涙を流す必要はない」この日のWSでマスターがおっしゃった。マスターの話を聞いて流す涙は気付きの涙だ。けれども涙を流させたのは後悔や罪悪感、抱え込んでいた負の感情であったりする。そんな涙は他者の同情の涙を誘うことはあれ、自分をどこにも連れて行ってくれない。流した涙はすぐ乾きもする(これもマスターの名言だと思う)。ならばどうするか。「四方を壁に囲まれた場所に赴き、自ら頭を壁に打ちつけ考えよ。そしてそこからにっこり笑って出てきなさい。」

前の壁に頭を打つのはサルバンガアーサナ、後ろの壁はマツヤアーサナ、横の壁はアルダカリチャクラーサナの練習になる。そう付け加えて拍手喝采を浴びたマスターのヨガ的ジョークはさておき、この日のテーマはヴィーラーサナ。戦士の特質は涙ではなく、強靭な肩と、呼吸とともにあることから得られる内なる力だった。

四面楚歌の項羽さまが四方を壁に囲まれた部屋に篭り、頭を打ちつけずとも楚歌ではなく内なる力に耳を傾けていたら、、、というのは歴史への冒涜になってしまうけれど、八方塞がりに陥りがちな私が習得すべきはヴィーラーサナだと思った。四方の壁で頭を打ちつける代わりに、マスターが言及されたアサナに取り組もう。そして涙の代わりに考えよう。八方を打ち破るために何をすべきなのかを。

マスターはヴィーラーサナから何を学ぶべきかでこんなこともおっしゃった。呼吸をしているということはこれ以上にない力を既に与えられているということ、呼吸していることが大いなる力と共にある証、ならば何を恐れるというのか。中国の故事成語に負けず劣らずマスターが伝えるヨガの言葉にはいつもパワーと希望がある。

(注)四面楚歌
楚の項羽が四面を囲む敵である漢軍の中に楚の歌を聞き、楚はすでに漢にくだったのかと驚き嘆いたという『史記(項羽本紀)』の故事から、周りが敵や反対者ばかりで、味方のないこと。孤立無援のことをさす。

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